TheProletarian’s blog

「社会主義」について考えるブログです。

社会主義とは④私が大切に思う理由

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この現代において、何故「社会主義」は大切なのか。

 

どうもTheProletarianです。

 

社会主義」という思想について三回に渡って記事にしてきましたが

私個人が本当に書きたかったのはこの記事です。

 

前回、「社会主義とは人類の理性であり良心である」という何だかポエムのような

一文で締めくくりましたが(笑)、正直私自身の社会主義に対する想いは「ポエム的」なのだろうなぁと思います。

 

そうした性質もあって、初めから私個人の「社会主義論」を語ってしまうと単なるポエムに受け取られてしまいそうなので…… 三回に分けて最低限の歴史的背景概念に触れる記事を書きました。

そして、ここからは「社会主義」を知識として理解した上で、私がこの現代社会に何故必要と感じるのかを独断と偏見で語りますw 恐れずにぶちまけます。

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競争社会と自己責任

まず、現代社会において私が一番危惧しているのは「競争社会」の暴走です。

私自身、競争という概念を否定はしません。それが生み出す力がこの近代文明を支えていることは明確ではあるからです。

しかし「競争」とは一つの手段であって、「競争」ありきで社会を構成していくというのは間違っていると思うのです。

「競争」が目的の社会とはなんなのでしょうか。

 

社会に生きる全ての人間を、否応なくスタートライン(全員異なる位置)に並ばせ、号令をかけて走らせることでしょうか。

勝者から順に価値あるものとされ、脱落した人間はその場に放置されてゆく、そういう社会を良しとするということでしょうか。

 

「A社よりかっこいいもの作ろう!!」「いままで見たことのない商品を作ろう!!」

こうした自然発生的に起こる「競争」はそれ自体健全なものです。

最初にも述べている通り、その「健全な自然発生的競争」が今の世の中の物質的豊かさを支えていることは間違いありません。

しかし、「競争」することをこの社会に生まれた瞬間から「当然の義務」かのように強制されるのは健全とは言えません。

頑張って走り続けなくては脱落し、みじめにその身を横たえることになる……

そのような半ば「強迫観念」が社会に浸透しているように感じるのです。

理由は明確ではないがなんとなく不安を感じるから貯金し続けるという昨今の傾向も、景気が良い悪い以前にこのような感覚が根底にあるのではないかと思います。

 

そして、「競争社会」で感じる強迫観念をさらに強固にしていくもう一つの病魔があります。

自己責任」です。今の日本では繰り返し様々な場面において登場しますね。

この言葉、もともとは金融業界における「自己責任原則」というのが元になっているらしいです。投資家が自らのリスク判断で行った投資で生じた損失に関しては自ら負担するという原則を示しています。金融商品販売側にはこの方が都合が良いですよね。

ここから抜き出された「自己責任」は何とも便利な言葉として現代の日本社会に浸透しています。

 

初めに私は「競争社会」についての危惧を書きましたが、この「自己責任」は「競争」とセットで用いられることでその威力を最大限に発揮します。

つまり、「競争社会」から脱落し、貧しくなるのは「自己責任」だというのです。

 

頑張らなかった貴方が悪い。能力値が低いのが悪い。

貧困におちいるのは努力が足りなかったからだ。

それらは全て「自己責任」から生じた結果なのだと。

 

このような形で「自己責任」が使用されているのは皆さんも少なからず見聞きしていることでしょう。

 

大前提として「競争社会」において「平等なスタートライン」というものは存在しません。人は生まれた瞬間から様々な要因によってその市場価値はバラバラです。

有名芸能人や政界の大物の子供であればただその生まれによって,名もなき凡人の子供とは明らかに世間的価値が異なります。

このような状況下での「競争」とはなんなのでしょうか。

もともと有利な条件に生まれた人間は「優秀」なのか。その栄光は本人の努力によるものなのか

反対に不利な条件に生まれが故に浮上できずにあえぐ人間は「本人の努力不足」「自己責任」と一蹴にされてしかる存在なのか

これらは持たざる者の僻みと言ってしまえばそれまでかもしれません。

しかし誰もが一度はこのように感じたことがあるのではないでしょうか。

競争社会」「自己責任」それ自体を前提とした社会は、このようにどんどん他人に対する思いやりを弱めていき人間が本来備えている※「共同体」として生きる感覚を退化させていくことによって、孤立化しやすい社会を推進していくと私は考えています。

 ※「共同体」についてはこの先で詳しく述べます。

 

人間の本能と資本主義

ここで一つ皆さんに考えて頂きたいことがあります。

 

「資本」の持つ性質とはなんでしょうか。

概念的で分かりにくいと思うので、もしこの「資本」というのが人格を持った

キャラクターだとしたら……いったいどんな人格でしょうか。

 

 

資本の性質とは「増える」ということです。

これはマルクス資本論の中で定義しています。

 

資本とは、「増えたい!!」という人格を持つキャラクターなのです。

もっと、もっと、とにかく増え続けたい。

そして、資本は増えることが唯一の人格であり、増えるためであるならば他のことには

一切関心がありません。

資本を増やすためであるならば、労働者が過労死しようと自然環境を破壊しようとお構いなしです。今日の解決しがたい環境問題なども必然の結果なのです。

 

そして、このもっともっと増えたいという資本の性質は、我々人間の持つ欲望(本能)

と極めて親和性が高いのです。人間の欲望には際限がありません。一度求め始めたら決して満足することはせず、より多くを求めるようになる性質を持っています。

これは生まれながらに誰もが備えている性質であるが故に非常にパワフルで抗いがたいものです。

前述したように、増えることを性質とする「資本」という存在を最も良しとするのが「資本主義」ですから、人間の欲望である「もっと多くを求め続ける」という性質と最強に相性が良いのです。

放っておけば脳が勝手に求めてしまうのです。我々人類は、他人より多くを手にすること自体に快楽を感じるようになってしまっているのです。

 

もちろん上記のような人間の欲望を単純に悪と決めつけるわけではありません。

こんなことを言っている私自身だって日々いろいろな欲望と向き合いながら生きているわけですから……(笑)

 

しかしここで私が主張したいのは

 

「本能の領域=資本主義」(持論)をただそのままに放っておいて良いのかということです。

われわれ人間には「理性」があります。

脳でいうとざっくり前頭葉という部分がつかさどっています。

そして人間は、この理性の部分が他の動物よりか大きく進化していることによって

これだけの高度な人間による「共同体」(社会)を構成することができたのです。

 

考えてもみてください。

この日本だけでも一億人以上のバラバラな人間が存在しているのに、日本という国は

今のところ分裂したり崩壊したりせずに「社会」が運営されています。

これが「理性」なくして成立するでしょうか。

正に人間のもつ「理性」のみが成せる技です。

 

「理性」を捨ててしまったらわれわれは野の獣と同じです。

ただ今日の自分の腹を満たすためだけに他人と争うことに明け暮れる存在になり下がってしまいます。それではもはや「共同体」を保つことは不可能です。

 

そして私が強く思うに、、、

本能の領域としての「資本主義」の暴走にストップをかけることができるのは

「理性」だけです。

そして、この「理性の領域」=社会主義だと私は捉えています。

だから私はこの現代社会に社会主義(理性)」が必要不可欠だと主張しているのです。

 

私は「社会主義」を本能の領域である「資本主義」の対極の概念として定義します。

なぜならば、より多くを求める利己的な人間の本能に逆らうのが「理性」である「社会主義だからです。既知のとおり、人は生まれながらにして他人より多くを得たいという性質を備えているので、それらにあからさまにストップをかけてくる社会主義」という存在を決して気持ち良くは感じません。

これこそが「社会主義」が疎まれている最大の要因だと思います。

 

しかし気持ち良くないことも受け入れなくてなりません。

むしろ、気持ち良くないからこそ意識して努力する必要があります。

皆さんも生まれてからいままでの人生を冷静に振り返れば気が付くはずです。

 

この社会はルール(制約)で成り立っているのだと。

自分の思うがまま(自由)に何をしても許されることなどむしろなかったのではないでしょうか。

 

でも皆さんは生きてこれていますよね。

自由とは、なんでもして良いということではなく、決められた枠組みのなかでの個人の権利なのだと私は思います。

そして、わざわざこのように理屈的に意識はしていないかもしれませんが

多くのひとが自然に日常のなかで実行していることなのです。

 

職場で九時から会議と言われたらよほどのことがない限り時間通りに集まるはずです。

これは、個人の欲望よりも共同体を優先していることに他なりません。

こうしてスケールの狭い身近な範囲でみれば何ら特別なことではないですね。

それらの積み重ねによって「共同体」としての「社会」が運営されているのです。

 

社会主義」とは、それらをもう少し上の次元において、つまり国家の運営において

も実践するために必要な存在なのです。

 

 

ひとは「共同体」で生き延びてきた

 ここで今一度、「共同体」について考えてみたいと思います。

共同体としての「社会」そして国際的枠組みのなかで見たときにおける「国家」

とは、人間がその「理性」をもってして築きあげたものです。

既知のように、社会にはさまざまな性質を持つ人間が存在しています。

もちろん厳密な意味でのたった一人で、生まれてから一度も誰にも助けられずに生きてこられた人など存在しないのです。

でも世の中には

俺はたった一人で生きてきた!

誰にも頼らなくたって生きていける!

人生はすべて自分次第だ

 

みたいなかっこいいこというひと、けっこういますよね。

弱者切り捨て論を持っている「強者」の方々にも多くみられる傾向ですが・・・

 

そういう人にひとつ問いかけたい。

何もできない、それこそ自分の排泄の処理もできない赤ん坊だったあなたの面倒を

だれがみたのですか。まさか赤ん坊の頃から自分でおしめを取り換えていたなんて言わないでしょうね(笑)

 

ひとは本来だれもが一人では生き残れない「弱者」です。

だから古来よりわれわれ人間は「共同体」を作ってお互いを支え合いながら生きて発展してきたのです。もっと原初的な生活を営んでいた時代ではそのことを誰もが当然の感覚として受け入れていたと思います。

なぜなら現代のように人間は自然という環境のなかで優位性を持つ存在ではなかったからです。野の獣におびえ、自然環境の脅威と対峙して生きていくには共同体として団結するしかないという意識が自然に芽生えたのだと思います。

 

しかし技術、文明の著しい発展により、いつしか人間は自然環境から隔離された「都市」というものを形成し、そこの領域においてのみ生活するようになりました。

結果、自然環境というものは人間の日常からは離れた存在となり、かつての脅威の多くは表向きはなくなったように感じます。

本来ひとは安心するために集まって暮らしていたという性質が「都市部の生活」においてはむしろひとが多すぎて互いをうっとおしく感じるようになり、そのことが互いを無視して生きるという性質に変容しました。

 

つまり、現代の特に都市に生きるわれわれは本来の「共同体」という感覚を忘れてしまっているのです。

前述したように、自分が本来「弱者」であったことも忘れてしまっているような「強者」が唱える「弱者切り捨て論」もある意味こうした「時代の産物」とも言えます。

 

ここで勘違いをしてほしくないのは、なにも私は人間の生活を本来の原初的な「共同体」に戻したいなどと言っているわけではないということです。

このように発展し一見すると一人で生きていけそうに思えてしまう現代だからこそ

改めてわれわれは「共同体」なのだ、弱き存在だからこその「共同体」なのだという

ことを思い出す必要があると強く思います。

  

 

共同体におけるポリシーとしての「社会主義

 

既に記載のとおり、本来「共同体」は必要に迫られて自然発生的に形づくられたものであり、なにより個々が生き延びるためには必然的に「共同体」を重んじるという発想が誰しもの心の内に存在していたと思います。

 

しかし、やがてその必然性を薄く感じるようになってくるにつれ、人間は「共同体」という存在を忘れさり、各々が自らの欲望のために「共同体」を軽視した活動をするようになります。

もちろんこれは古来よりあったことでしょうが、資本」を多く持つ人間の力が計り知れないものとなった「資本主義」の現代においてそれはより顕著です。

もちろん「資本」を多く持つ人間を一概に「悪」と言っているわけではありません。

 

しかしながら残念なことに、膨大な「資本」を手にしていくことでかつて自分も弱者であったことを忘れ、自分の成功と裕福さがなにより「社会」という存在によってであるということも忘れてしまった「強者」が一定数出現してきます。

彼らはまさに「資本」の持つもっと増えたい!という性質に憑りつかれてしまったのです。「資本主義」の盲信者であり、自分の必要をゆうに超えてなお「資本」を求め続けます。その過程で他者を踏みにじり、他者を自らの利益最大化の為に利用することも厭わなくなります。

そしてなにより、「資本」の性質に完全に呑まれてしまった彼らは自分自身ではもはやブレーキを掛けることすらできなくなってしまうのです。

 

しかも、一度そうした「巨大な資本力を持ってしまった※相手に対して、われわれ持たざるものが個人で立ち向かうすべはありません。

(※個人のみならず企業も含めた広義における)

現代社会においては、巨大な資本・経済力というのがなによりも強き武器なのです。

そのような相手に倫理や道徳を説いても無駄でしょう。

強靭な「資本・経済力という武器」を手にした相手の前では、話し合いというものは役に立ちません。なぜなら、話し合いというのはそれなりに力関係が均衡しているもの同士の間でしか有効でないからです。

 

ならばそうした暴走をどうやって食い止めていくのか。

 

これには同じく強い力を持ってして立ち向かうしかありません。

持たざるものが結託し、公平な形で代表を選出し、本当の意味での民意を反映した議会によって運営される「民主機構」による力が必要なのです。

特定の利害関係に縛られた枠組みでの「偽りの民主主義的議会」にではなく、真の国民の意思が反映された「力」として出現すべきです。

それは時に、経済的な「抑圧」という強硬措置を必要とするかもしれません。

しかし、それらは持たざるわれわれが唯一取れる対抗手段なのです。

 

「共同体」が自らを構成している要素に対して「抑圧的措置」を取らねばならないことは非常に悲しいことです。

それでも時には「共同体」全体として見たときに必要なこともあると思います。

悲しいかな、この人間社会という「共同体」において他者をだましてでも巨万の富を得ようとする人間が後を絶たないのです。

世界を翻弄しているコロナ渦においても、せっかくの救済手段である持続型給付金を

数億円も騙しとるような人間がいます。そこまでの規模ではなくとも、なんとか誤魔化して不正受給しようとする人間も一定数います。

給付金を騙しとるということは国民全員から盗みを働いていることに他なりません。

よくもまあそのような最低な行為を平然と行えるものです……

 

このように、本来は人間の持つ良心」のみで社会が運営できれば理想なのですが現実はそうはいきません。

そして、それはやはり「資本主義」のもたらす側面であると私は思います。

「資本」を至上の存在として成り立っている世界においては

「他者を出し抜いてでもより多くを手にすること=豊か・幸せになれる」

という盲目的価値観が誰しもの根底に存在しているのです。

「資本」の本質に完全に呑みこまれてしまい利己主義に暴走する人間に自らブレーキを

掛けてくれることを期待しても恐らくは無理でしょう。

だからこそ、「共同体」というより大きな枠組みでの抑止力が大切になってくると私は思います。その抑止力はもちろん「法律」などという手段によって現代社会には既に存在しているわけですが、私が今一度唱えたいのは人間社会全体により浸透するべき精神的な意味合いにおける「抑止力」です。

 

我々は本来誰しも「弱者」であり互いの支援を必要としている。それゆえの

「共同体」であり、それを守ることはあなた自身を守ることでもある

 

この信念をしっかりとすべての人々の胸に刻むことこそが重要だと思うのです。

願わくば、法律などの表面的なことではなく、各々に共通したその「信念」自体が

行き過ぎた利己主義的行動へのブレーキとなることができればベストです。

 

従来のマルクス主義的な「共産・社会主義」に圧倒的に欠けていたのはこの部分です。

私有財産を禁止する」とか「プロレタリア(無産階級)」が既存の政府機構にとってかわるべきなどなど。

いずれも手段のひとつであって形式的なものです。

私の勝手な偏見かもしれませんが、旧来のマルクス主義者や社会主義者はあまりにこの

形式的な社会分析に囚われすぎてしまったように思います。

確かに実際の運営を考えたら形式的にものごとを決めていくことは必要不可欠ですが、

人間は「心」を持って行動をし、生きる存在です。

その「心」への訴えかけなしに、単なる形式的な押し付けだけをしても決して上手くいきません。正に「ソ連社会主義」の失敗はこれが要因なのです

 

もちろん人の「心」に訴えかけていくことは容易なことではありません。

単に「○○することは禁止です」など表面的な制約を作ればよいということでもありません。それも大事ですが、「何故それが禁止されるのか」という心根を説くことはもっと大切です。

これには「教育」という視点から見直すべき点もあるでしょう。

もちろん日本では、小学校から道徳や社会科の授業を義務教育課程としていますし

海外に比べて「全体」を重んじるという傾向は強いとは思います。

それを今後もより実践的に「体験学習」として、「机上の空論」で終わることなくしっかりと卒業後も社会に出た各々の心に残る存在として、皆の共通の「心の指針」となる

ような教育を国がしっかりと構築していく努力が大切だと私は思います。

 

 

本能としての「資本主義」社会において、「社会主義」という理性を忘れないことがとても重要である。

 

 

以上がほぼ私が今回お伝えしたいことの全てです。

 

非常に長くなってしまい申し訳ありません。最後まで読んで下さった方々本当にありがとうございます。この記事が何らかの考えるきっかけとなれば幸いです。

 

 さてちょっと疲れたので、次回は私の趣味の一つである「キャンプ」について

語りたいと思います(笑)!!

社会主義とは③概念

社会主義共産主義

 

 

どうもTheProletarianです。

前回の記事では、ものすごい雑に社会主義が発生した「時代背景」について触れましたが、ここからはもう少し具体的に中身を見ていきたいと思います。

 

 

ここでくどいようですが重要なのでもう一度。

社会主義」自体は決まった一つの思想ではなく、色々な方針を持つグループの混成だという前提を挙げましたが、ここから先で私が言及しているのはあくまでマルクス的社会・共産主義だということをご理解ください。

おそらく多くの人が認識しているのはマルクス派だと思うので。

 

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社会主義」について考えるとき、「社会・共産主義」と一緒くたに捉えてしまいがちですが厳密には違います。それぞれ「段階」が異なるというイメージです。

 

言わずと知れた「資本論」の著者として有名な「カールマルクス」も共産主義に関しては一定の段階を経て達成されると記しています。具体的には、三段階に分かれます。

 

①資本主義が成熟する(限界を迎える)←世の中の多くはここ

社会主義へ移行(生産手段の共有化、消費財を除く私有財産の廃止)

共産主義の達成(全てが共有。国や政府機構も消滅)←目指すゴール

 

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ここで鋭い方は疑問を持たれたことでしょう。

 

①資本主義???   

 

共産主義では否定される概念ではなかったの?!!

 

 

そうです。「資本主義」が最初の段階に含まれているのです。

共産主義」が目の敵にする「資本主義」も、実は通らなくてはいけない通過地点なのです。コインの表と裏のように、相反する概念でありながらも双方とも必要不可欠な存在なのです。

 

マルクスの書籍などを読むと、まあ堅苦しくまわりくどいことこの上ない言葉使いで書かれているので、「つまり何が言いてえんだよ~!!!」と吠えたくなってしまいますww

 

が、ここは私なりにざっくり捉えた「資本主義から共産主義への移行」を書きます。

 

 

①「資本主義」が発展すると大小さまざまな問題を人類にもたらします。

大きな視点で見ると、とにかくモノを大量に生産し売りつけたり、お金を貸し付けたりする必要があるので各々の自国領土内だけでは成立しなくなり、新たな領土を求めて戦争が起こります。これは世界史でのイギリス・フランスの植民地支配などの時代に顕著ですが、現代でも規模の縮小はあれど起こっていることです。

我々の身近な視点で見ると、たとえば温暖化やエネルギー問題、過労死やうつ病、所得格差の拡大や首都・主要都市部とそれ以外の地域での格差拡大など、、、

これらは定期的にニュースなどで取り上げられているので、ほぼ全ての人が身近に感じられる問題かと思います。

「資本主義」は我々に物質的豊かさをもたらす一方で、上記のような問題を山のように噴出させるものでもあるのです。

 

社会主義」という段階への移行

資本主義の究極地点では、前述のような問題がもはや解決不可能な点にまで達します。

プロレタリア(労働者階級)の不満は限界点を超え、各地でストライキが多発し社会が正常に機能しなくなります。そこで出てくるのが、プロレタリア自らが「社会」の運営をしようという考えです。まあとは言っても、既存の政府機構に一体全体どうやってプロレタリアが取って代わるのだという疑問が残ります。

だから歴史上、数々の革命が起こったわけですがここでは言及しません。

 

新政府機構はより平等化を目指して「資本主義社会」に蔓延するあらゆる「不平等」を正していこうとします。もちろん「自由市場経済」のままではそれは不可能なので政府による「計画経済」を導入します。もちろん生産手段は共有化され、私有財産も制限されていきます。

現代で考えると「規制緩和」の真逆の流れと考えればイメージしやすいでしょうか。

このように、「社会主義」という言葉自体が表しているように、「資本」ではなく

「社会」という共同体を第一として国を運営していきます。

※ここで重要な点は、新政府機構(国家)マルクス共産主義的に定義するならば「いずれ消滅することを前提とした国家」ということです。

あくまで「国家の消滅」を前提とした上で、過渡期における橋渡し的な概念としての新しい「国家」と捉えていたということですね。

 

 

③「共産主義」の達成

この地点は究極の理想郷です。

資本とか、私有財産はもちろんのこと、国や政府機構という概念も存在しません。

全く想像がつきませんねw  当然です。今だかつて、人類がこれを達成したこと

などないのですから。だから、例えばソ連や中国を例に出して、共産主義を否定することは間違いです。(共産主義国というのは、そもそも共産主義の概念では存在し得ない)

人々は常に自らの利益ではなく、社会全体の為だけに自発的に働きます。

「共産」という言葉を私は「共に産み出す」と捉えています。

法律で縛ったり、互いを監視したりせずとも、誰一人不正をせず、常に共同体の維持の為に誰からも強制されることなく働くことで「共産主義世界」は成立します。

もうこれが実現した世界といのは、ある意味「天国」とも言えますね……

はっきり言って今の我々未熟な人類には到底達成できないと思います。

でもこれが、「共産主義」が目指す未来像なのです。

 

 

このように段階を追って見ていくと、人類と社会が成熟した果てにたどり着く世界が「共産主義」であり、その過程に「社会主義」があるのだと解釈することができるでしょう。そしてこのことからは、文明の進歩などの技術的な意味合いのみならず、我々「人間」そのものがより成熟し進化していくべきだという思いが込められているように私には感じられます。「共産主義」というものは、ある意味で「政治思想」のみならず新たな「人類の進化論」を提示しているとも言えるのではないでしょうか。

個人的には、この点が「共産主義」を興味深く思う部分なのです。

もちろん、マルクス自身は「人類の進化論」などとは一ミリも思っていなかったでしょうし、科学的根拠や分析を伴わないそのような空想的発想など一笑に付するでしょう。

 しかし私が思うに、「マルクス共産主義」に決定的に欠けていたのはこの「人間的」視点です。彼らが繰り返し定義する「労働者」とは紙の上の領域を出ることはなかったように思います。現実の労働者とは、喜怒哀楽があり、労働に精を出すときもあればかったるいなぁと怠ける時もあります。理論だけで生きていくことはできません。感情に負けて矛盾や非合理的な行動も取ってしまうのが「人間の性」ですよね。

そして、「労働」を単に「賃金」や「資本家」との枠組みの中だけで語ることもできませんね。人間は感情があるので、自分の仕事に「やりがい」を感じれるかどうかでも同じような雇用条件においても労働に対する感じ方が全く異なると思います。

つまるところ、マルクス的な発想に欠けていたのは、「労働者は血が流れている生身の一人の人間」であるという点ではないかと私は思うのです。

同時にこれは今日、マルクスの時代と比べて遥かに「労働」というものが多様性を持ったより複雑で定義しにくいものになったとも言えるでしょう。

 

ちょっと話が脱線してしまいましたが、まあこうしていろいろ私なりに考えた結果

 

共産主義」は現在の我々にはあまりにも高次元すぎるので

無理に追い求める必要はない、というのが私個人の考えです。

何かの間違いで、我々が新人類になることができたらその時に考えましょう(笑)

 

 

今の人間社会にとって大切なのは、「社会主義」の段階なのです。

なぜならば、「社会主義」とは「人間の理性であり良心」であるからです。

 

まるでポエムのようになってしまいましたが(笑)

次回では、私が何故現代社会において「社会主義」思想を大事にしているのか

語りたいと思います!!

 

社会主義とは②時代背景

社会主義」の背景を考える

 

どうも、TheProletarianです。

 

今回は前回の投稿に引き続き、「社会主義」について私個人の思うところを語っていこうと思います。

 

正確な歴史や詳細については是非ご自身で調べて頂きたいですし、いろいろな書籍が

豊富にありますのでそれらプロフェッショナルの方々の論述にお任せしたいと思います!!(読んだ書籍の紹介などもしていこうと思います。)

 

でもそもそもの前提くらいは私が責任を持って自分の言葉で語らないと卑怯ですよね。

(ほんと、思想とか歴史を正しく語るって難しいですし勇気がいります……涙目)

 

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まず先に誤解が生じないように言っておかなければならないのは

社会主義」とは○○である。と明確に定義するのは極めて困難だということです。

なんだか逃げのようにも思えますが、そもそも「社会主義」と言ってもさまざまな考えや方針があり、一概には定義できないのです。

多数の派閥の闘争や数々の試行錯誤を伴いながら、時に民衆の中より自然発生的に下から上へ、時に上から下への働きかけによって時代の変化と共に発展してきた思想、それが「社会主義」なのです。

しかしこれではあまりに漠然としてしまうのでもう少し具体的に要素を絞ってみます。

 

 

社会主義」の本質を捉えるために重要なのは、「労働者の運動」です。

この思想の本質を考えるときに重要なのは、あくまで「社会主義」という言葉は一つの

思想としての定義付けであって、ある日いきなり誰かか「そうだ!!これからは社会主義でいこう!!」などど言い出したわけではないのです。

誰が元祖「社会主義という概念の提唱者」なのかというのもなかなか難しい問題であり、歴史家でもない私にこれを定義することはできません。

しかし一つだけ私が確信をもっていえることは、産業革命におけるイギリス・フランス・ドイツなどにおける「労働者階級」の中から自然発生的に生まれた「労働者の運動」がその主要な源泉となったということです。

 

産業革命によってイギリス・フランス・ドイツを代表とした列強は急速な近代化を遂げて繁栄していきます。生産が手工業から機械工業へと移行し、大量の商品を生み出して莫大な利益を上げることが可能になります。

このことは勿論国力をあげることにめちゃくちゃ貢献しましたが、「労働者」プロレタリア的視点で見ると無視できない問題が大量発生していきます。

工場での機械を使用した大量生産が前提となりますので「機械」(生産手段)を持っていないプロレタリア(労働者)は生産設備を持つ資本家に雇用される形で労働することになります。全てにおいて圧倒的に資本家が強いので労働者は資本家がより多くの利益を得るために搾取され続けます。

現代の日本に生きる我々の感覚からは信じがたいですが、この時代は年端もいかぬ子供も平気で12時間労働などを強いられていたのです。

農村部においても、近代化は従来の家族経営的な農業を次第に困難なものとし、農村部から都市部への人口転入が急速に進みました。

 

このような状況下で、プロレタリア階級の不満は抑えられないものとなっていきます。

労働環境の改善、賃金の上昇、長時間労働の是正など「自らの権利意識に目覚めた労働者」はさまざまな「労働運動」を通じて資本家と闘ってゆくのです。

超ざっくりとしていますが、産業革命以降の、「資本家との闘いのなかでの労働者の権利意識」が今日の「社会主義」思想の土台を構築することになったと私は理解しています。(私自身も絶賛世界史を勉強し直し中ですw笑)

※世界史をある程度理解していないと何故人類が「社会主義」を生み出しのかを理解することはできないということを痛感します……

例を一つ上げると、1789年の「フランス革命は多くの方が知っていると思いますが、

フランス革命」における「ジャコバン派」という急進派が行った「恐怖政治」はのちの社会主義国における独裁政権の「お手本」になりました。

ソ連」の建国者レーニンは、さまざまな書籍において「フランス革命」と「ジャコバン派」について言及していますし、彼が起こした「ロシア革命」は「フランス革命」を「お手本」にしている部分が多々見受けられます。

(ここもテーマにしていずれまとめようと思います!!)

思想的にもジャコバン派社会主義のさまざまな派閥においても、「ジャコバン派」という一定の勢力を生み出しました。

 

知識を得るまでは私自身、「社会主義」と言えばなんとなく「ソ連」つまりロシアのイメージが強かったのですが、その源泉の多くは「フランスの歴史」に存在することが分かります。これは「社会主義」を「偏見」で捉えていた私にとっては大きな衝撃でした。やはり歴史を勉強することはとても大切ですね。

 

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今回はざっくりと社会主義」の歴史背景に触れました。

次回からより具体的に見ていきたいと思います!!

 

 

社会主義とは①イメージ

社会主義とは悪なのか

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どうも、TheProletarianです。

 

二回目の投稿ですが、今回は私がもっとも大切に考えていることについて書きたいと

思います。

 

それは、「社会主義」とはなにか。何故今の時代に必要なのかという事です。

皆さんは、「社会主義」という言葉を聞いて何を思い浮かべ、どう感じるでしょうか。

もちろん「なんじゃそりゃ」と思う方も、知識としては知っているという方もいる

ことでしょう。そして、知っていると思われた方の中でも「社会主義」に関して

良いイメージを持っているという方は少ないのではないでしょうか。

 

これは私の偏見かもしれませんが、なんとなく世の中的に疎んじられている思想のように感じます。同時に、それは無理もないとも思うのです。

 

なぜなら、社会主義というのは歴史的には失敗であると見なされているからです。

ソヴィエト社会主義共和国連邦、略して「ソ連

この国名は多くの人に耳馴染みがあると思います。実際、「社会主義」を語る上で

ソ連を避けて通ることはできません。

(ソ連については本ブログで今後詳しく取り上げていきます!!)

そして、この社会主義を標榜する国は、1991年に崩壊し消滅しました。

それに付随する東欧諸国の社会主義共産主義ブロックも共倒れの形で消滅の道を辿りました。(東欧の共産圏はまた複雑であり、全てをソ連と同等には扱えませんが)

 

ここで誤解してはならないのが、「社会主義」という思想自体が消滅したということではなく、あくまで「社会主義」を標榜する国家が消滅したという点です。

他にも、社会主義陣営として

中華人民共和国

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)

ベトナム社会主義共和国

キューバ共和国(2019年に大統領制に移行済み)

など現在でも存在します。

 

いずれも、政治・経済面で「貧しい」「言論の自由がない」などの

ネガティブな印象が強いのではないでしょうか。

その上、標榜していた最大規模の「ソ連」が既に消滅しているのですからこれは「失敗」と見なされても無理はないでしょう。

 

しかし、ここで皆さんに大きな思い違いをしてほしくないのです。

社会主義」という思想自体と、標榜した国の運営結果として生じた歴史とを混同すべきではありません。

否定的な意見の多くは、ソ連におけるレーニンスターリンの苛烈な独裁や虐殺

中国における毛沢東の蛮行、カンボジアでのポルポトの大虐殺

北朝鮮における国民への弾圧や圧倒的貧困さなどを引き合いに出します。

確かにそれらの歴史は間違いありません。

 

 

しかしです!!

 

果たして、それらの国々は本当に「社会主義だったのか、ということです。

いずれも、実態は「社会主義」の理想を掲げたがいつの間にか単なる「独裁国家」に

なってしまったという悲しい歴史です。

社会主義思想」は決して、独裁をして国民を虐殺しろなどと説いてはいません。

 

まずそこの大いなる誤解を多くの方に解いてもらいたいと思います。

ここの出発点の偏見がある以上、どのようにしても「社会主義」の本質を肯定的に捉えることが出来ないからです。

 

そして、「社会主義」を理解しようとする時、我々の目を眩ます大きな障壁がもう一つあります。

 

アメリカです!!

 

正確に言うなら、「アメリカ的視点」です。

え?? ここは日本でしょ???

あーよくいる何でもアメリカ・CIA陰謀論者か……

違います!!

そう思われた方も、冷静に身近なメディアなどを見つめ直して欲しいのです。

 

 かつて冷戦時代、世界は西陣に分かれていました。

というよりも当時のソ連アメリカが勝手に線引きしたと言っても過言ではないでしょう。ここでは冷戦自体については割愛します。

 

日本は、西側に分類されています。

西側の中でも、経済的に発展した主要国とされていますし、なんとなく多くの人が

その認識でいると思います。(国連安保理常任理事国には入れてもらえませんが・・・)

しかしそもそもが西だの東だのと世界を単純に二極化して捉えてよいのでしょうか。

世界の二極化は、冷戦当時の当事国によって都合良く定義された枠組みにすぎません。

戦争というのは、何が敵であるか悪であるかを明確に定義することで国民を一致団結させる必要があるからです。十人十色では戦争に勝てませんから。

 

世界の戦争屋アメリ」は非常に狡猾な国で、プロパガンダに長け、古今東西あらゆる国に介入してきました。第二次敗戦後の日本の復興の段階において、アメリカは非常に緻密な計画を持ってしてこの日本を「アメリカ的視点の西側国」に作り変えました。

その際にどのような手段を用いたかについては多くの要素がありますが、ここでは

私が思いつく身近な例を挙げたいと思います。

 

例えばアメリカのハリウッド映画を知らない、一度も観たことがないという人は少ないでしょう。私自身、小学校時代などを思い返してみると、当時は「木曜洋画劇場」「金曜ロードショー」などで盛んにハリウッド映画が放送されており、毎週始まりの21時を楽しみにしていました。学校でも同級生と昨日見た洋画の感想を興奮気味に語っていたのを懐かしく思います。

 

まあ私自身が小さいころから映画好きなだけだったのかもしれませんが

日本人は洋画=ハリウッド映画という感覚で育ってきた方も多いのではないでしょうか。

 

そしてここからが重要です!!

ハリウッド映画でも特にアクション映画などの分野で顕著なのですが

かならず正義と悪が存在します。

もちろん多くにおいて正義は「アメリ」なのですが、問題はです。

 怪しい敵・スパイの人物の「ソ連」設定のなんたる多さ(笑)

とりあえず敵に困ったら「ソ連のスパイ」にしとけ!!くらいの感じですね。

今でも続く007シリーズもそれの最たるものです。

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つまり、ほぼサブリミナルかのごとく、アクション映画を見るたびに

ソ連=悪いやつ」というイメージが刷り込まれていくのです。

 

もちろん映画だけで洗脳できるわけではないですし、単に映画をよく観ていた私の「映画に対する過大評価」の側面もあると思います。

 

しかしかつて、ソ連の建国者レーニンは以下の言葉を言い残しています。

全ての芸術の中で最も重要なのは映画である」と。

ソ連における「芸術」は非常に面白いテーマなので今後私自身勉強しながら投稿していくつもりです。乞うご期待!!

 

いうまでもなく、これはレーニンが映画ファンだったからではありません。

映画が大衆に与える影響力の強さを分かっていたのです。

 

そう考えるならば、一大産業の一つであるハリウッド映画にアメリカの意向が介入していない訳がありません。

東西冷戦時の対立構造を、映画の中でも繰り返し描き出すことによって自由で発展した国はアメリカを代表とした西側暗く不気味なイメージに満ちた東側という認識を世界に浸透させていった訳です。

そして、アメリカによって再建された日本は特にその影響を強く受けていると思います。私自身も、自分で興味を持って知識を得るまでは、ソ連については「根拠のない漠然とした不気味な印象」を持っていました。正に目論見通り(笑)!!

要するに、我々は身近なさまざまなメディア(例として映画)を通じて東西冷戦期のイメージを潜在意識に植え付けられており、そのことが「社会主義」に対する理解に「偏見のフィルター」を掛けてしまっているということです。

 

このイメージを払拭することは容易ではありませんが、まずは西側・東側という枠組みを捨てアメリカが決して正義でも正しいわけでもないということを認識したうえで、純粋に「思想」として「社会主義と今一度向き合う必要があるのです。

 

 

ちょっと長くなりすぎてしまうので今回はここまでにします。

次回では、何故私が「社会主義」を大切に思うのかについて投稿しようと思います。

 

我々はプロレタリアだ!!

皆さんどうも初めまして~!

TheProleterianと申します。

自分はプロレタリアであり、社会主義者です。

このブログでは、おそらく多くの誤解と偏見に満ちている「社会主義」についてマイペースに語っていこうと思います。

 

なお初めに断っておきますが、私個人は如何なる社会・共産主義政党や団体とも一切関係ごさいません。そして、すべてに関して全くの素人です。

なのでこのブログは、歴史や政治思想について正確に記載しようというよりは、私個人が読んだ書籍や見聞き、経験したことからあくまで私というフィルターを通して「社会主義」とそれに付随する諸要素を語っていこうというスタンスです。

 

何故ここまで言い訳がましい前提を述べる必要があるのかというと、

思想とはそれくらい扱いが厄介なものであると思うからです。

取扱い注意の劇薬ですww

 

よく我が国で,「飲みの席で政治(思想)と宗教の話はするな」などと言われるだけはあります。

しかし、私はこのことは大きく間違っていると思うのです。

私のような、ど素人で何ら特筆すべき点が何もない人間こそ、大いに語るべきなのです。そうした人間が、酒を飲みながら、休日ドライブしながら、友人とたむろしながら

「これからの社会とは」とか「今の政治はどうのこうの」とか議論するのが本来の

民主主義国家のあるべき姿であると強く思うのです。

 

とは言うものの・・・

 

私個人、学生時代は政治や経済・思想に全く関心がありませんでした。

大学は美術系だったのでマイワールドに浸っていて、あまり外の世界に興味を持っていなかったのです (苦笑)

特に、政治経済などは一般大学の政治経済部とかを専攻する人間が学び考えるべきことであり、自分はクリエイティブ、芸術的なことだけ考えて生きていれば良いと本気で思っていたのです(何と傲慢で無知だったのか・・・)

 

それが社会に出て、一応クリエイティブ職には就けたものの

自分が学生時代に勝手に思い込んでいたことなど社会では通用せず、そして自分の

クリエイティブ的にも能力値の低さを思い知らされたとき、初めて本当の意味で社会と

触れた気がしました。

その後、自分の世の中に対する知識の無さに徐々に恥ずかしさを覚えるようになったのが今となっては「政治思想」に関心を持つきっかけであったと思います。

 

もともと読書は好きだったので、興味の赴くままにいろいろ読んでみた結果、

関心がなかった時と大きく世界の見え方が変わりました。

本当に自分の中で、思考が書き換わったように感じたのです。

ニュースを見たり、ネットでの社会問題の記事を読んだりするときに以前よりか圧倒的にしっくりくるようになりました。

自分でもそのこと自体が以前の自分と比べると非常に驚きの体験であり、同時に楽しくもありました。

 

 

はい、なんか胡散臭い自己啓発セミナーの謳い文句みたいになってしまいましたが

有料メルマガ登録とか変な壺とか売りつけたりしないのでどうかご安心ください!!

 

とにもかくにも、私の目標としては、

このブログの発信を続けていくことで、政治思想により多くの人に興味を少しでも持ってもらうこと(特に私より若い方々など)

そして願わくば「社会主義」の大切さを考えてもらえれば本望です。

(何故その思想が大切なのかについては次回の投稿で書きます。)

 

さて、ちょっと長い前置きになりましたが

 

 

突然ですが、皆さんはこの絵が何を表現しているか分かりますか。

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決して運動会での平和な組体操の絵ではありません(笑)

 

この資本主義社会の階級構造を表しています。

上から順に

 

①皇帝・官僚(政府機構)

②聖職者(バチカンローマ法王などイメージしてもらえれば)

③軍隊・警察など

④貴族ブルジョアジー

⑤労働者階級(無産階級)

※時代と国によって差異はあれど、大方この構造に当てはまると思います。

 

では、我々はこの絵でいうどの階級に属しているでしょうか。

 

まあ、なんとなく分かりますよね・・・

 

底辺部の苦しそうな人々、⑤労働者階級(無産階級)

これが我々です(少なくとも国民の大半は)

そして、この階級を、「社会主義」思想では「プロレタリア」と呼びます。

本ブログのタイトルでもあります。

ざっくり言うと、資産(土地・生産手段などの広義での)を持たず、ただ賃労働によってのみ生きるものと定義されます。

毎月家賃やローンを払いながらあくせく働くサラリーマンの姿そのものですね。

(サラリーマン自体、賃労働者という意味です)

あー自分は全く違うわwwと思われた方は、どうぞ回れ右をしてご退場ください。

 

そうでない方は、ぜひこの階級図の底辺部「プロレタリア」に属しているのだという

認識で世の中を注視しながら生きて頂きたいです。

この社会を構成する大半は「プロレタリア」なのです。

その大半がまずはしっかりとした認識を持つ、これが多くの人々にとっての「健全な社会」を運営し続ける上で必要不可欠であると思います。

社会がいつのまにか、一部の階級の人々の為にのみ運営されてしまわないように

圧倒的マジョリティーである我々「プロレタリア」が共通認識を持ち、自らの頭で考えて世の中の流れを注視していく努力をし続けなくてはならないと思います。

 

私は、こうした情報発信を通じて、少しでも社会に働きかけることをしたい!!

そのような思いから本ブログ「TheProletarian」を立ち上げました。

 

変に硬くなりすぎず、自分の等身大の視点でいろいろな投稿をしていきたいと思いますので、ぜひ興味を持って頂いた方は応援頂けると大変嬉しいです。

 

今後とも宜しくおねがいします!!

 

 

TheProletarian